カテゴリ:社会問題・人生論・人間関係・教育・学問 > 人生論・精神論・思想・哲学


久しぶりに本を1冊紹介したいと思います。

蛯子能収(えびこよしかず) 『ひとりぼっちを笑うな』

「ぼっち」を好む人には、手にとってお読み頂ければと思いました。

よく「孤独」「ぼっち」は「負け組」とされる嫌いがあります。私も昔、「友達がいない」「モテない」などと嘆き散らすことがありました。しかし、実のところ、もともと自分は「ぼっち」「孤独」のほうが好きだったようです。仲間に誘われるよりも、自分のやりたいことがある。それは何も悪いことではないでしょう。実際、「ぼっち」「ひとり遊び」が好きだという人は、想像以上に多いようですね。

「つながり」「人付き合い」「絆」だとかと喧伝し、やたら群れたがる人も多いですが、われわれそんな世間の「孤独=負け組」の呪縛にかかっているのかもしれません。

「つながり」「絆」はもちろん良いことでしょう。しかし、「孤独」「ぼっち」にも良さがあると思います。

私も今まで「つながり」の中に入っていこうと、いろんな社会活動や、SNSを通じたオフ会、その他に関わってみました。長続きしなかったものがほとんどですね。でも、長く続かなくても、一時的な協力関係として前向きに捕らえても良いのではないでしょうか。学校時代に親しかった友達も、卒業すれば疎遠になることは、ごく普通のことです。「昨日の友」が裏切って「敵」に寝返ることもあるのが、残念ながらこの人間社会の現実。「去るもの追わず」で構えるほうがよさそうですね。

「孤独は力なり」という言葉があって良いと思います。孤独だからできることがある。自分のやりたいことに打ち込めばよい。自分の興味関心や趣味について周りの人に理解してもらえない、と僻んでしまうこともあるが、地道に続けていれば誰かが見てくれます(もちろん、間違ったことをがんばるのはやめるほうがよいです)。

逆に何でも群れたがる、人にばかり頼る、ちやほやされることにしか関心がない人は、最終的に嫌われるでしょう。

それから、「友達が欲しい」と思うのなら、自分からつながろうと働きかけ、努力すること。好かれるために(あるいは嫌われないために)自分を改める努力も必要ですね。嘆きながらじっと待っても、友達はできないでしょう。




 


時々「悪名は無名に勝る」という言葉を聞きます。

それは、

世に知られるきっかけが悪評であったとしても、まるで世に知られていない状態よりはずっとよい

無名よりは悪名高いほうが何かと有利である


といった意味合いで使われます。

現実にそれが当たっている事例も多いことでしょう。

* * * *

さっそくですが、私が運営している(複数の)ブログのことで最近気になっていること。

時々、細かい間違い等の指摘コメントあるいは茶化しコメントをいただくことがあります。記事本文の主張やアイデアに対して「非現実的にもほどがある」などともっともらしい物言いで腐すような書き込みもたまにあります。そんなとき、間違える自分が悪い、相手方が正論であるとわかっていても、正直不快感を覚えます。

しかし、物は考えようで、何らかのコメントが付くということは、それだけ自分のブログを熱心にご覧いただいているということでしょう。本来、間違い指摘や批判のコメントも有難く受け取り、そこから学び取るのが筋でしょう。むしろ間違いや突っ込みどころのあるほうが、かえって面白いと言えるかもしれません(あまり間違いが多すぎるのも問題ですが)。反対に、アクセス数が少なく鳴かず飛ばずの状態(1日あたり一桁~20以下)だと、やはり落ち込んでしまいますね。「悪名は無名に勝る」とは、このことでしょうか・・・。 玉石混交あれど”ウザい”ほどコメントが付くときが「華」なのかもしれません。「間違い指摘コメント」さえ付かないのも良し悪しですね。

ただ、コメントを受け入れべきかということも程度問題。単なる批判や否定だけの揚げ足取り、誹謗中傷、荒らし、意味不明な書き込み、記事本文の内容と明らかに無関係なコメント、その他質の悪いコメントについては、やはり真に受けるわけにはいきません。他の訪問者様にも不快感を齎すだけなので、管理人の権限で厳しく対処する責任があるはずです。

* * * *

当ブログでは諸般の事情により、コメント欄の機能を停止しています。状況次第で今後復活することも考えていますが・・・。



何か不祥事や問題を起こした政治家・有名人・公人が緊急入院した、というニュースをしばしば見かけます。

その理由は大体お見通しであり、都合が悪くなったから病院に逃げているとしか思えないケースが大半でしょう。先の連休中も、カジノ強行をごり押しする横浜市長が成人式に出席せず、緊急入院されたというニュースがありましたね(そもそも、このコロナ災禍のもとで成人式を「強行」する横浜市政自体が問題だらけでしょう)。

公人が不祥事を起こして入院するということは、逃げていることと同義と判断され、人間として恥ずかしいことだと認識すべきでしょう。多くの場合、仮病なのでしょう。

一人仮病で入院すると、周辺にどんな影響が及ぶか。病院経営者にとっては確かに金銭的な恩恵はあるでしょう。しかし、仮病の人間が病床を無駄に占拠することになるため、本当に入院の必要な患者さんには迷惑千万にほかならず(助かるはずの命が奪われる可能性すらある)、現場の医師・看護師その他職員の方々から訝しげな眼差しを向けられることでしょう。まして、コロナ感染爆発で病床使用率がオーバーシュートするという現下だと、医療崩壊に加担していると痛烈な非難を浴びせられることは不可避でしょう。

* * * *

私も小学校の頃、魔が差したのか、あるイタズラをやってしまって親に怒られ、昼飯抜きの制裁を食らったことを思い出しました。これが私に厳しくて堪えがたいからと、「気分悪くなった」と仮病を使って赦してもらおうとしたが、今から思えば二重に恥ずかしいことでした。

自分のやらかした行動によって他の人がどれだけ迷惑するのか、あるいは逆に自分がやられる立場だったら、という思慮が弱かったのは、いくら小学生とはいえ・・・。本来、即座に自らの過ちを認め洞察して学び改めるべきで、それが以後の行動に結びついて初めて「反省した」と言えるでしょう(口先だけの「反省」ならサルでもできると言われますからね)。「気分が悪い」というのも、おそらく仮病とお見通しだったのでしょう。

小中学校時代、運動会の練習が嫌、プールから帰りたくなった時など、下痢や腹痛を訴えることもあったが、正直バレバレでしたね(苦笑) 仮病を使うのは悪いことではないが(たまに使うには良いでしょう)、バレないようにうまく演出しないと、後が大変です。仮病はできることなら使わないに越したことはありません。政治家や公人が仮病で入院など許されることでないのは、なおさらでしょう。


プロ野球選手・平野佳寿の『地味を笑うな』を借りてみました。

平野氏は1984年京都府宇治市出身。小学校時代から野球を始め、京都府立鳥羽高校へ進学後は甲子園のマウンドにも立ち、京都産業大学を経て、2005年オリックス・バファローズに入団。2020年よりMLBのシアトル・マリナーズに所属して活躍中です。

私は野球のことはあまりよくわからないけれど、なぜこの本を借りてみたのかといえば、「地味」な生き方の優れた実践経験を自分に感化させるため。

平野氏がこの著書の中で最も強調したいことは、「みずから進んで地味な存在であろうとするのは尊い」「地道な努力の積み重ねによって地味な仕事を黙々とやるのは素晴らしい」、でしょう。

平野氏は中学の野球部では地味とされるピッチャーに専念されることで鍛えられ、プロ野球への道を開く土台を築かれたそうです。入部するとき、小学校時代の少年野球の延長線で「すべのポジションをやりたい」と伝えたのだけど、監督からピッチャーを頼まれたとのこと。実際、平野氏にはピッチャーが適任だと監督が見極めたのでしょう。そして、毎日監督との『野球ノート』を書かされることを通じて、「野球脳」が鍛えられた、と語られています。相当シビアな世界で、運動音痴の私には到底無理でしょう(笑)

地味を笑うな
平野 佳寿
ワニブックス
2020-05-09

 

* * * *

私自身も、どちらかといえば地味に黙々やるほうが向いているタイプと言えます。しかし、高校~大学時代(さらに30代前半まで)の頃の自分自身を振り返ると、なぜか派手に目立つことにやたら飛びつく癖があり、中途半端な結果に終わる「負けパターン」が多かったように思います。やはり私自身には「派手」な花形的存在よりも、地味に徹することに適性があるということでしょう。

高校時代はやはりなるべく部活をやるほうがよかった。運動部が無理なら必然的に文化部を選ぶことになるが、(女子ばかりのイメージが強い)茶道部に敢えて入り礼儀作法や真心の大切さを身につけたいところ。その経験を自分の苦手な体育の授業を誠実に取り組んで平常点を上げることに生かす。文化祭では地味な単純作業でも何でもよいので、自分のできる仕事を見つけて買って出る(実行委員会等になったよいが大風呂敷を広げてやりっぱなしより、地味な仕事でも最後まで責任を持ってやり切るほうが「縁の下の力持ち」で好感を持たれる)。学業(受験勉強)では、英単語を毎日覚える、数学は基本・標準問題を繰り返し練習する、読書に励む、受験に使わない科目も定期テスト対策に手を抜かない。

大学も部活・サークル活動になるべく参加するほうが望ましいだろうが、自分のお気に入りのものがなければ、学外(地域)の社会活動・ボランティアに参加するのも、習い事を続けるのも、バイトで労働するのも有りでしょう。しかし、学生の本業は学業で、自由な時間の多い学生時代こそ、人一倍勉強に専念する(資格を取ることも含む)ほうが本来のあり方でしょう。「大学に行かせてもらっている」ことへの感謝(特に親・家族に対して)も忘れないように。


高校時代の文化祭について、私自身としてはどういう形で参加したら一番良かったのかを考えてみました。

実を言うと、私は文化祭のクラス実行委員会に加わったり、劇のときは重要級の役を買って出たこともあります。

その積極的に動くというところは良かったけど、いざ本番を迎えると、受験勉強で忙しいとか、あるいは決定したテーマが自分の趣味と合わない不満などから、中途半端になりがちだった、ということに心残りがあります。

あれこれ不満や愚痴をぶちまけながら、自分として文化祭で何を実現したいのかが本当はわからなかった、というのが真相のようです。

それなら、何も実行委員会に参加したり、スター級のキャストにこだわらなくても、単純作業でも何でも良いので自分の役割を見つけて、最後までやり切るようにすればよい。大風呂敷を広げて「言いっぱなし」「やりっぱなし」で終わるのが一番良くないです。

クラスでのテーマ企画は目利きのある他の人に任せるとして、自分は与えられた役割を誠実にこなす。気に入らないテーマだったら、「いゃ~、俺こういうの苦手なんやな」と笑いながら、決まったからには良いものにするよう、みんなで協力する。必要な材料の収集、小道具・装飾の製作、会場ステージの設営、掃除や後片付け、その他できることはいろいろあるはずです。

大事なのは、「最後までやり切ること」。これは受験勉強でも大事なことで、あれこれの問題集に手を出して中途半端に終わるより、1冊をやり遂げる(そして何度も繰り返す)ほうが確実に力がつきます。

* * * *

どうしても文化祭が嫌いだったら、休んで自分の好きなことをやるのもありでしょう。高校時代当時の自分だったら、サイクリングで遠出するとかやっていたでしょう。

ただ、これはもったないことでもあるような気がします。みんなが楽しく盛り上がっている中、一人寂しい思いをして後悔するかもしれません。受験勉強も文化祭のときぐらいは忘れてしまい、みんなで楽しく遊ぶのは大いにありですね。


幼稚園や学校で「皆勤賞」の廃止や見直しの動きが進んでいるそうです。

勤勉さの証とされてきた皆勤賞。

確かに皆勤賞を貰うと、嬉しいといえば嬉しいでしょう。しかし、皆勤賞が自己目的化してしまうことの弊害も問題になっています。 実際、体調が悪くても賞を目当てに登園・登校する(あるいは保護者が登校を無理強いさせる)子どもも珍しくないようです。また、台風で電車がストップしたり、インフルエンザに罹患した場合でも、出勤を強制する職場も少なからずあると聞きます。インフルエンザで出勤や登校をすれば、それこそ他の多くの人々にウィルスを撒き散らすことになって迷惑で、罪でさえあると思いますが。

下の朝日新聞の記事では、「休むべき時には休むという考えを小さい頃から教えたい」ということから、皆勤賞を廃止した幼稚園の例が掲載されています。

https://www.asahi.com/articles/ASMD34PY2MD3PTIL00F.html


皆勤賞をめぐっての私自身の経験ですが、小中学校時代は恥ずかしいながら、微熱程度の風邪で欠席や早退することもありました。正直、友達関係がうまくいかない、運動会の練習が嫌、という逃避とも重なっていましたね。親が電話で学校に連絡を入れたら、「微熱ぐらいだったら、なるべく休まないでください」と注意の一言を受けたそうです。通院を理由に早退して(それも大したことではなかった)、クラスメートに馬鹿にされたこともあるなぁ。

高校時代は、その反動なのか、勤勉さを印象付けようと、逆に38度近くの熱でも休まずに登校しようとするが、親に止められました。大学進学を目指すばかりに、授業を一度でも欠席したらついてゆけなくなる不安はあるし、やはり皆勤賞を取りたいという「欲」もなかったわけではないと思います。

しかし、皆勤賞にこだわるということは、むしろ恥ずべきことでさえある、と今思いました。インフルエンザなどにもかかわらず無理に登校・出勤するというのは、他の人に感染させることであり、周りに迷惑を及ぼしているわけで、思いやりに欠けると言えるからです。自分の皆勤賞や学業成績よりも大切なことがあるのです。授業が遅れて不安だったら、友達のノートを借りるなり、先生に聞いたりすれば済む話。体調が悪いのに無理すれば、病気を拗らて重症化、それこそ長期欠席や入院など、高くつくことにもなりかねません。授業についてゆけず成績が下がるばかりか、医療費が圧し掛かるなど家族に迷惑だし、「健康管理もできない注意力散漫な奴」と見なされることにもなりかねず、良いことはありません。いかに皆勤賞があまり褒められるものでないこと、がわかると思います。



道路交通法に違反した場合、 通行区分違反・信号無視・一方通行逆行・速度超過・ヘルメット不着用ほか、うっかりやらかしてしまいがちな軽微なものについては、違反点数3点以下&反則金納付で片付きます。飲酒運転などのような悪質な違反については、刑事罰として懲役刑と罰金が科され、免許停止。さらに事故を起こせば、民事責任と刑事責任の両方を負うことになり、家族を巻き込んで悲惨な人生が待っています。

ここでは、軽微な違反のときに課される「反則金」をどう捉えるのか、について考えてみたいと思います。

まず、「反則金」と「罰金」は大きく異なります。反則金は刑罰ではないため、「前科」は付きません。これに対して、「罰金」は悪質な違反に適用され、刑事処分の一つで、「前科」が付き、罪は重いです。

軽微な違反は容赦なく摘発するのに、悪質な暴走族や騒音の取り締まりは甘い、と感じる人も少なくないかもしれません。私も、やはり暴走族やマフラーの付いていないDQNな車などを見かけ、「馬鹿野郎、自爆しろ!」と腸が煮えくり返ることも時々あります。確かに、悪質なドライバーを野放しにするのは納得のいく話ではありませんね。反則金収入の使い道も、今一つわかりにくく、税金の無駄遣いの一つと思われている嫌いもあります。

しかし、軽微な違反では、数万円以下の「反則金」を納付するだけで済む、ということに感謝すべきではないか、と思うのです。これが悪質な違反だったり、人身事故を起こしてしまえば、1万円では到底賄いきれません。多額の罰金を課され、民事責任と刑事責任を背負い、一生かけて罪を償わなければならないのですよ。しかも相手の被害者の家族(遺族)ばかりか加害者本人の家族まで不幸のどん底に突き落とし、先の人生は悲惨でしょう。

「違反を摘発されたこと」そのものにも感謝すべきでしょう。あの瞬間、一つ間違えれば重大事故につながった可能性だってあり、ここで検挙されたのは、事故防止の意味合いもあるのだと言えます。事故を起こしてしまえば後の祭り。「反則金」は、事故につながりかねない自らの過ちを反省をするための「授業料」と考えれば、納得できるものでしょう。


721b4864.jpg


 


Twitterで、自称・選挙アナリストのザマ○○氏という人が、訳わからぬふざけたTwを流しています。

そろそろガレイちゃんと呼ぼうか?笑
@zamamiyagarei

もっというと、ラーメンって、バカが食べるものとすら思ってる。これは枝野さんだけの話ではなくて。もっといいものがたくさんあるのに、なんでラーメンを食べるのか、センスがないと本当に思う。これは20代前半からずっと思ってる。

https://twitter.com/zamamiyagarei/status/1149348113917906945


これって、立憲民主党・枝野幸男代表への攻撃では、と思っています。
枝野氏が全国遊説中の食事に各地の美味しいラーメンを味わっておられるという話はかなり有名。私も枝野氏のラーメン紀行には好感が持てますね。

上のザマ○○氏のTWは、あれこれ理由をつけて枝野氏を腐したいのでしょうね。

氏は続いて、

ラーメンと言うのは基本的には味が1つでその味が1つのスープの中に小麦の麺が入ってるって言う基本的な食べ物で。味が最初から最後まで単調。そして1人いっぱいのラーメンを食べると言う、分け合うと言うことがあまり発生しない食べもので、それもとてもつまらないですね。

と発言しておられるが、だからラーメンという食文化がつまらないとでも言うんでしょうか。ラーメンのスープの味も麺の形も、人間の数だけ違いがあって奥深い文化と思うんですが。ご当地ラーメンという概念も、「ラーメン」という文化が日本の歴史・文化風土とは関連性がないという批判もあるが、土地のラーメン業界の粒粒辛苦を通じて土地の文化として育まれ、多くの国民に愛されているのですよ。私個人的に、枝野氏がラーメンをすする光景は可愛らしくて好感が持てますけどね。もちろん野菜もしっかり摂るよう気をつけていただきたいとは思います。

ザマ○○氏の問題発言は、単純に枝野氏への人格攻撃にとどまらず、私を含め全てのラーメン好きの人間、ラーメン業界の従業員・関係者、さらにはうどん・蕎麦文化そのものを敵に回していると言えます。一種の差別発言でもあり、怒りを感じるものです。ラーメンが嫌いなら嫌いで、他の美味しいものを探して食べれば済む話。他人の趣味や感じ方まで論うのは、おやめいただきたいです。



「皆勤賞」は自慢すべきことなのか、意味があるのか、ということで意見が分かれると思います。

小中高の12年間通して完全無欠席・早退遅刻無しの皆勤賞は、さすがに難易度が高くてなかなか取れるものではないでしょう。私・管理人ももちろん12年間通しの皆勤賞は果たせませんでした(笑)。ただ、「1学年単位の皆勤賞」は中3・高2の2学年で成しました。高3も皆勤賞が取れるところまで達していたが、卒業式前日は国立大学2次(前期)試験が迫っていたので、風邪を引かないようにすることも兼ねて親の忠告に従い、欠席。場合によっては卒業式も欠席させられるところでした(笑)。いわゆる上位進学校と言われる学校では、受験生に配慮して卒業式を国立大学前期試験の後に実施するのが普通のようだが、わが母校ではなぜか試験前に卒業式で納得できませんでした。高校の皆勤賞や卒業式よりも大学入試のほうが、今後の長い人生にとってとても大切なのはわかっているが、それでも卒業式には出たいもの。

小学校時代は小4で皆勤賞、と言いたいところですが、実は小4時代、頭痛を訴えて早退したことがあるので、微妙なところ。その後、数日間続けて、担任の先生に頭痛を訴えたりするが、優しい先生もさすがに呆れ返ったようです。小5・6のときも、軽い風邪で休んだり早退したことも何度かあり、「あんた、本当に風邪治す気あるんか」と親に呆れられましたね。

小学校時代はちょっとした頭痛や風邪で欠席・早退を繰り返し、冷たくあしらわれたことからすれば、中学・高校時代に「1学年単位の皆勤賞」を複数回達成したことは、手前味噌ですが自信を持ってよいと思います。小学校の時は勉強嫌いな私が、中学・高校時代に勉強をがんばったのだから。その弾みで、38度近くの熱が出たにもかかわらず、(少しの風邪で休んでいた小学校時代とは逆に)できれば登校したいと思ったこともあったが(下痢や吐き気などなく、少しだるい程度だった)、その日はさすがに親に止められましたね。皆勤賞の誇るべき点は、「健康管理がしっかりしている」「向学心・向上心がある」などでしょうか。

しかし、本当に体調の悪いときは、無理をせず、学校・会社を休むべきです。インフルエンザや感染性の強い病気だと、学校や職場にウィルスを撒き散らすことになり、このときに登校・出勤するのは罪であるとさえ言えます。「皆勤賞」なんかにこだわっている場合ではありません。他の人に病気を移したりその他面倒をかけないよう配慮する、思いやりのほうが大事です。安静にして治癒に努めるべきであるのは、言うまでもありません。流行病のときは、学校では「欠席」ではなく「出席停止」の扱いとなります。「出席停止」は「欠席」日数にはカウントされません。「出席停止」と同じ扱いで「学級閉鎖」することもあります(学級閉鎖を喜んで、学校から帰って遊びに行くのは本当は不謹慎。学級閉鎖になった理由を考え、自宅でおとなしくするほうが望ましい)。「忌引」も同様。家族・親戚の冠婚葬祭にはなるべく出席するほうが良いです。


適菜収の著書をまた1冊簡単に紹介します。

「男が30代でやめるべき習慣」として、以下の例が挙げられています。

【いますぐやめるべき「自分磨き」】
「楽しくない仕事」
「群れる・つるむ」こと
「自己啓発」
「名刺交換」、ほか

【言ってはいけない「口ぐせ」】
「オリジナリティ」
「コスパ」
「がんばれ」
「中身で判断して」
「言い訳」をやめる、ほか

【すぐに捨てるべき「メディア」】
「テレビ」を捨てる
「紅白歌合戦」を見ない
「SNS」をやめる
「グローバリスト」をやめる
「多数決」をやめる
「新聞」を捨てる、ほか

【やってはいけない「マナー」】
「下品」をやめる → 箸の持ち方を改める
「行列」に並ばない
「三流のもの」と距離をおく、ほか

・・・

私個人的に、「特にこれは」と共感したのは、「群れる・つるむ」ことをやめること、でしょうか。
仲間を作る、友達・仲間と共に行動すること。これ自体はとても良いことでしょう。

だからといって、いつも「誰かと一緒にいないと不安だ」「大勢で行動しないと落ち着かない」というのは、どうでしょうか?

私は、仲間と群れる、というのは苦手。どちらかといえば、一人で行動するほうが好きですね。そのくせ、少し前までは、人に頼りすぎる、誰かにかまってもらいたいという依存心も強く、今から思えば実に恥ずかしい。それゆえ、詐欺師や宗教まがいのものに騙されたことも少なからずありました。

仲間と共に行動することはすばらしいが、孤独になってがんばるのもまた立派なこと。一人のほうが、自分らしさを貫くにはずっと良い。人に相談にのってもらい助言を仰ぐのもよいが、最終的に決めるのは自分自身です。旅行するときも、基本的に一人旅ですね。

「論語」に「君子は和して同せず、小人は同して和せず」という言葉があります。意味は、「人と争わず仲良くするが、自分の意見はしっかり守ってむやみに人に同調したりしない」。悪い意味での「群がる・つるむ」は、「同して和せず」でしょう。反対に、正しい「孤独」は、「和して同せず」の「同せず」であり、それは人と争うことではなく、他の人の立場を互いに認め尊重しあうことにつながると言えます。







cd7a6376.jpg



少し難しい本ですが、われわれ趣味人にとっても耳の痛い記述があったので、紹介させていただきます。

110ページ、「いちばん興味があるもの」。


人間にとっていちばん興味があるもの、それは人間にほかならない。
それ以外のものには興味を持ってはいけない。

『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』

上に引用したゲーテの言葉はどういうことなのかといえば、「電子化された情報への関心が保てる一方、人間そのものへの関心や興味が希薄になっていくのではなかろうか」、「ヒトよりモノに関心を持つのは、どこかおかしいのではないだろうか」と著者・木原氏が指摘。すなわち、生きた人間をモノとしてしか扱う傾向を助長することになり、人間関係の妨げになっているのではないだろうか、と問題を提起されています。

ゲーテは、上に引用した言葉に続いて、

「われわれを取り巻いているそのほかのものは、われわれの生活環境にすぎないものか、それとも、われわれの用に供される道具にすぎない。そういったものにこだわり、注意を向け、かかずらわることが多ければ多いほど、われわれ自身の価値や社会に対する感覚は弱くなる。庭や建物、服装、装飾品など、これらに類した所有物に大きな価値を置く人は、人付き合いが悪く、不親切だ。」

と述べています。庭・建物・服装とか車・バイク・装飾品などが楽しくて価値を置くのは全く悪いことではないが、要は身の丈に合ったものを選び、何事も程ほどにということでしょう。

いわゆる「オタク」とは、コレクションだけが目的で、当事者以外の人にはほとんど価値のないようなものに、異常な興味を抱く人のことだと、木原氏は指摘しておられます。知識オタクという言葉もあるが、自分の知識の豊富さを誇示すること、知識のひけらかしに必死な人のことで、はっきりいって当事者以外を不愉快にさせる存在です。私・管理人自身にもそのような嫌いがあると自覚しており、改めるよう努めているつもりです。木原氏曰く、「オタク」と言われる人には、自分たちが手にするモノの背後にある、人間や社会との関わり、作った人がいることに思い及ばない、ということ。単なる断片的な知識の羅列をしたがる知識オタクも、確かに見苦しいですね。自分一人だけ盛り上がっても、やがて飽きてしまうものです。

鉄道趣味人に求められるものは、話題のコレクションや情報を独占したりむやみにひけらかしたりするのではなく、鉄道を築いた人々、鉄道を動かす人々、鉄道を利用する一般の人々、地域社会や歴史との関わりなどを意識することでしょう。お祭り騒ぎなどの迷惑行為は論外ですね。






 


ここ数年、ネットやSNSの世界にて、左派・リベラルな学者・有名人・有識者・活動家たちの「終末論」が目につきます。

昨年末から、私が特に気になるのは、

○日本はもうダメだ

○民主主義終わった

○大阪終わった

○北海道終わった

○立憲民主党の躍進に限界が見えた

○仮想通貨オワコン

ほか、「○○終わった」という言い方。

先の統一地方選・衆院補選で、大阪は維新が完全制圧、野党勢力は「惨敗」の結果に終わりました。 
北海道知事選も、せっかく野党共闘体制を確立したにもかかわらず、与党系の前夕張市長が当選。JR北海道および北海道の農業の将来が心配です。

小沢一郎支持者・自由党支持者と称する輩の、(野党第一党の)立憲民主党や枝野幸男を口汚く罵倒するTWも目に付きます。

どうも、左派・リベラルな知識人やジャーナリスト、そして小沢一郎支持者と称するTwitterランドの人たちは、日本の未来についての悲観論ばかりを煽り立てているような気がします。選挙の度に、立憲民主党にあれこれケチをつけたがるようですが、野党勢力躍進にとっては「百害あって一利なし」と言っても過言ではないでしょう。陰気で不景気な顔でダサダサな姿の彼らが余計な口出しすることで、無党派層の票が逃げるだろうから。

終末思想は、つまるところ「諦めなさい」ということ。日本を支配している人たちは、われわれ国民が諦めることを待っているのです。左派・リベラルの悲観主義や終末思想は、野党(反自民)の立場を装った思想攻撃と見なすことができます。

野党は、「アベノミクス」に代わって日本の経済をいかにするかを具体的に示すべきです。悲壮感や観念的な「アベ政治にNo」「維新府政・市制に反対」だけでは、今や支持が集まりそうにありません。「消費税廃止」「消費税減税」もよいが、張本人の自民党が横取りしようとしているし、「減税の財源をどうするのか」と揚げ足を取る連中もいるので、消費税だけでは今一つ力不足な感じもします。その点、立憲民主党の「ボトムアップ」という言葉には、何気に新鮮さがあり、無党派層の心をつかむポテンシャルがあって好感を持てます(「アップ(up)」という単語自体がポシティブだ)。

今回の統一地方選では、立憲民主党は当選率90%以上の善戦をしています。翻って、立憲民主党を誹謗中傷ばかりする自由党は、当選者ゼロだそうではないですか。国会議員を輩出するには、地方議員を増やすことが王道だとされていますが、立憲民主党はその正しい道を歩んでいると言えます(地方議員の多さでは、共産党はダントツですが)。


自慰は全然悪いことではありません!

https://twitter.com/sak_ZKAI/status/1113730998254964736




実を言うと、私は大学1回生の時だけ、学園祭の実行委員会をさせていただいたことがあります。

やってみようと思った動機は、「友だち・仲間を増やして自分を変えたい」だったと思います。

実行委員会を経験した全体的な印象としては、「ボクはどうもこういうのは得意じゃない」というところでしょうか。というのも、組織が体育会系のノリで、他にやりたいことを犠牲にしないといけないような雰囲気がある(学園祭本番が迫ると、学生の本分である講義すらサボらないといけないことも。実際、そのために単位を落として留年することになった先輩もいた)。さらに、実行委員会スタッフは学園祭の一般参加が禁じられており(すなわち、裏方)、模擬店の食べ歩きもほぼ不可能。学食での最終日打ち上げの時の立食・オードブルは、スタッフ同士の料理の凄まじい争奪戦で、ほぼ食いっぱぐれに・・・。

今頃遅いと言われるかもしれませんが、当時の私自身の参加姿勢を反省・自己批判したいと思います。はっきりいって、中途半端だったと認めざるを得ません。学園祭のスタッフに参加する・しないは個人の自由。しかし、参加すると決めたからには、やるべきことを最後までやり抜く、というのが大人というもの。何だかんだと理由をつけて、活動をサボったりしていたが、今となっては実に恥ずかしい限りです。スタッフの一般参加が認められていないことについて不満に思っていたが、それは入会申し込みのときに承諾したはず。参加後に不満をいうのでは、筋が通るはずがありません。

ただ、学生の本業である講義までサボらないといけない件については、大いに騒ぐ権利があります。スタッフの学園祭当日の一般参加についても、時間限定・交代制で認めるとか、みんなで話し合って改善を求める余地はあるはずです。

友だち・仲間を増やして自分を変えるのは、別に学園祭のスタッフになって目立つことだけではありません。サークルや同好会でも良いし、旅行やオートバイを買うことなどを目的にバイトで金稼ぐのでも結構。ボランティアでインターンするのもよし、彼氏・彼女を作るのも、資格取得の勉強も、学業に専念してゼミに積極的に参加するのもしかり。学生時代は自由な時間がたっぷりあるのですから。ただし、宗教系サークルなどは避けるほうが無難。一番損なのは、中途半端なこと。学業も部活もバイトも遊びも中途半端だった、というのでは、後悔することになります。これほどもったいない話はないでしょう。


学校や会社を休みたい(ずる休みしたい)と思った経験は、誰にでもあることだと思います。

実際に休みを入れるとき、問題となるのは「休む理由」とその「後始末」

まず、「休む理由」 として、オーソドックスなものに、

1)仮病・怪我
2)冠婚葬祭
3)家族・家庭の事情
4)交通事情

などが挙げられます。中でも1)の仮病は一番使いやすいでしょう。ただし、1日だけでは回復しないインフルエンザや流行病は1週間の出勤・登校停止を受けることになります。重たい病気を理由にすると診断書の提出を要求されるし、咳や怪我を理由にするとすぐウソがばれやすく、辻褄合わせが大変です。使える理由としては、一時的な体調不良、具体的に「発熱」「頭痛」「腹痛」「下痢」などが無難なところでしょう。

2)の冠婚葬祭について、ウソの理由として使うことは私個人的におススメできません。忌引きは数日~1週間を休みにすることができる強力なものですが、何度も頻繁に使えるものではありません。しかも、自分が一時的に休みたいだけの理由で祖父母や親戚が亡くなったことにするのはその人に失礼だし、会社(職場)だったら、特に近い親類の場合は上司が告別式に出席したり香典を送るということも十分あり得る話で、これもすぐウソがばれるので、やめるほうがよいでしょう。どうしても冠婚葬祭を理由に使うとすれば、遠い親戚あるいは遠方の親戚や友人に選んだほうが無難でしょう。

3)の「家庭の事情」を理由にするのも、あまりおススメできません。

4)の「交通事情」、具体的に「事故で電車が遅れた」などというのも、スマホで交通情報を調べたらすぐわかってしまうことなので、偽って使うのは危険です。


そもそもウソをつくことは、信用・信義に関わる問題であり、親戚が亡くなったことにしたり家庭の事情を理由にするのも、その人の人間性を疑われかねない問題だということを、認識すべきでしょう。本人の気づかぬところで、周りの第三者には意外に見られているもので、ひょんなことから漏れ出すということはよくあります。

休みを入れたいのなら、理由をなるべく正直に言うほうが無難でしょう。旅行・レジャーのために休むのだったら、前もって有給休暇を申請する。学校でも子どもが家族旅行で休むことには理解を示してくれるようです(これを病気で休むということにしてしまえば、せっかくの楽しい思い出を友だちに話せなくなって気の毒だろう)。

病気を理由に休みをいれたのなら、その日の外出は病院等を除いて厳禁です。飛び上がって出かけたりしたところで、学校や職場の人にばったり会ってしまったら、一瞬にして疑いの眼差しを注ぐことになり、致命的です。自宅でおとなしくして休みましょう。その日のオンラインゲームやSNSは、そこから期せずしてウソがばれることもあるので、これもやめるほうが良いでしょう。スマホからは離れて、読書・勉強あるいは部屋の片付けなどが一番無難でしょう。


Youtubeで大愚和尚さまの面白い動画を見つけました。

人間関係、仕事、家族、金、起業、恋愛、いじめ、性欲、老後、その他さまざまな人生の悩みを、
仏教の言葉を使いつつ、とてもわかりやすく語っておられます。

私自身も、心当たりのあることが多いです。拝聴する価値は大いにあると思います。

https://www.youtube.com/channel/UC4arQnli3ffEuCSrSgAD_Ug/videos

 


池田晶子氏の本を1冊かんたん紹介。

哲学といえば難解で一般庶民にはとても理解しづらい、という印象が強いと思います。
私も大学の哲学の講義は全然わからなかったし、自主的に哲学書に齧ってみたこともあるが、
さっぱりでした。

池田晶子氏は「庶民にわかりやすい哲学」に関する本を多く著されており、
中でも『14歳からの哲学』は話題を呼びました。

「哲学」とは「人がどう生きるべきか」を示す学問?のはずですが、
ここで紹介する『絶望を生きる哲学』は、短くて読みやすく、
池田晶子氏の哲学の入門と言えるかと思います。

内容の一部をかんたん適当に紹介すると、

 情報化社会は空疎な孤独
 悩むことを楽しむ
 勝っても負ける生き方
 人生にとって大事なもの
 自分を不自由にしているのは
 他人の欠点を責める前に
 自己責任という無責任
 ・・・


 


努力しているが結果が出せていない・・・。

これは(特にわれわれ日本人に)よくありがちな罠だと思います。「努力すること、続けることは美徳」とされているのは一般的に良いことでしょう。子どもの頃、幼稚園や家庭などで「よくがんばったね」と褒められた経験は多いと思います。子どもの学校の成績が悪かったりその他失敗したときには、叱りつけるよりも、まず努力を認めてあげるほうが、やる気を持続させる上で効果的でしょう。もっとも、「このままで満足」して終わりではダメで、次回は(もっと)良い結果を出せるよう、「改善・進歩するためにどうすればよいか」を一緒に語り合うのが良いかと思います。

「努力」は手段であって目的ではありません。「一生懸命がんばっているのに結果が出ない」のだとしたら、その努力の方法、求める方向が間違っていないのか、あるいは「自己満足な努力」「自称努力家」に終わっていないか、を立ち止まって反省する必要があります。辛いだけの「努力」をそのまま続けて、時間・金の浪費だけで過ごしてしまって、本当に幸福な人生なのか? もちろん失敗は何も悪いことではなく、失敗ならそれと認める。厄介なのは、失敗や過ちをそれと受け止めず、「ボクはがんばったんだ」と現状に満足し開き直ること。これでは進歩は難しいでしょう。ただ、現実には、ブラック企業に勤めている場合とか、処世術として「努力しているふり」を演出せざるを得ないことも少なからずあり、それは一つの有効な手段でしょう。

上のような批判的な姿勢を取るべきは自分本人の努力に対してのものあって、仲間・チームのメンバーや他人の努力に対して、貶すような言い方は慎むべきだと思います(その一言でものすごく傷つくこともある)。まず、「よくがんばったね」と褒め称え、あるいは「お疲れ様」と労うことでしょう。落ち込んでいる同僚や仲間が立ち直るようにすることが先です。可能なら「こうすればもっと良いのでは」などと建設的なアドバイスをする。相手の間違いを正すのなら、指摘・追及するような言い方では反感を与えることになりかねません(もちろん例外はあります。国会討論や刑事告発などの場では、厳しい追及が求められます)。なかなか難しいが、角が立たぬよう工夫して伝えるようにする。場合によっては、厳しい言い方をせざるを得ないこともあるでしょう。そのとき、つい感情的になりそうですが、上手く抑えて理知的に注意するのが大人でしょう。

なお、組織・グループのリーダー本人については、「ご期待に沿わぬ結果となり申し訳ありませんでした。重く受け止めます」など、責任ある姿勢を示すべきです。選挙で負けながら、政党の党首や幹部が「善戦した」「よくがんばった」などの声明で終わっていては、支持者たちから「本気で勝つ気あるのか」と顰蹙を買うことになるでしょう。


「まじめな人」とは、ある目標に向かって一生懸命に突き進んでしまう人。「まじめ」は日本では美徳とされ「優等生」として高く評価されやすいが、それが果たして本当の実力や人間的魅力のアップに結びつくのでしょうか? われわれは、そのことを疑ったほうがよいように思います。

「まじめの罠」とは、まじめに努力した結果、自分や社会を悪い方向に導いてしまうリスクのこと。 この罠にはまっている人は、「まじめ」に努力を何年も続けているつもりでも、良い結果が得られないまま、ということになりがちでしょう。私自身もこの罠にはまっていたようです。異質なものを排除しようとしたり、「いじめ」がなかなか減らないのも、「まじめの罠」に関係していると指摘されています。現在の日本で労働運動やリベラル野党がなかなか盛り上がらないのも、「まじめの罠」に支配されているためだと容易に想像できます。

本当に「まじめ」な「優等生」がすばらしいことなのかを反省し、「脱・まじめ」の上手な方法とご利益がこの本に述べられています。


まじめの罠 (光文社新書)
勝間和代
光文社
2011-10-18




↑このページのトップヘ